リウィウスを読もう!

ティトゥス・リウィウスの「ローマ建国以来の歴史」、
完全日本語訳がまだされていないこの史料を読もうという試みです。
自己中心的なことに、スタートは21巻からです。いつになることやら分からないけれど、エンドは30巻です。
要するに、第二次ポエニ戦争限定です。

*はじめてお越しの方は、「はじめに」をご覧ください。
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21-25
ローマに「ハンニバル、エブロ川を渡る」の知らせが来る。
同時に北部イタリアでガリア人が反旗を翻す。
同地に滞在していたローマ人が被害を受ける。
法務官ルキウス・マンリウスは軍を出すが、ガリア人の攻撃にあって、立てこもらざるを得なくなった。
 一方、ローマにはマッシリアの使者が「ハンニバル、エブロを越える」との知らせをもたらしていた。
 これと前後して、インスブルス族とボイイ族が叛乱を起こしたという知らせも入ってきた。彼らは長年ローマの敵だったのだが、今度はローマがポー川流域に建設した植民市・クレモナとピアチェンツァの存在を憂慮して叛乱を起こしたのだ。
 この部族はすばやく決起して軍を挙げ、農地を襲った。それだけではなく、当地に滞在していたローマの長官をも脅かした。ガイウス・ルタティウス、ガイウス・セルウィリウス、ティトゥス・アンニウスがこの地に滞在していたのだが、彼らはプラケンティアの城壁では守りに不安を感じたため、ムティナまで退いた。
 これらの長官に関してだが、ルタティウスについては間違いないと思うが、残りの二人については史家によってまちまちだ。かわりに挙げられる名前は、マンリウス・アキリウスとガイウス・ヘレンニス、もしくは、プブリウス・コルネリウス・アシナ(*1)とガイウス・パピリウス・マソである場合もある。
 彼らが果たして、ボイイ族の元に事態に抗議しにいった時に災難にあったのか、それとも被害を受けた土地を調査しているときにあったのかも、はっきりと伝わってはいない。
 
 ガリア人たちはムティナを包囲したが、彼らは包囲戦をするだけの十分な技術を有しておらず、市壁には攻撃が加えられないままだった。町を包囲した彼らは和平交渉に耳を傾けるそぶりを見せたが、これが罠だった。
 使節はガリア人に誘われるがままにその首領の元を訪れたが、そこで捕縛されてしまったのだ。これは国際的法に抵触しただけではなく、信義を無視する悪しき行いだ。ガリア人たちは、「ローマに捉えられた我々の仲間を返してくれれば、こちらもそれに応じて捕虜を解放する」と要求してきた。
 
 使節が捕らえられ、ムティナも危機的状況にあるという知らせがローマに届くと、法務官のルキウス・マンリウスは激怒した。彼は軍を率いてただちにムティナへ急行した。
 土地はまだ開墾されておらず、森の中を進軍せねばならなかった。マンリウスは斥候を出さずに進軍したために、敵の奇襲を受けてしまった。かなりの犠牲が出た中、マンリウスは何とかして開けた平原に出ることが出来た。
 この地に塹壕を掘って堅固な陣営を固めたところ、ガリア人たちはここでこのローマ人を攻略することは無理だと判断して攻撃を控えた。マンリウスの軍は徐々に士気を取り戻しつつあったが、ここで失った人員は500人にも登っていた。
 再びマンリウスは軍を進軍させた。平原の続く限り、敵の姿は見えなかった。ところが再び森に入ると、最後尾から奇襲を受け、軍団は恐慌状態に陥った。ここで700人が命を落とし、6本の軍旗が奪われた。
 何とかして森を抜けることができると、ようやくガリア人の攻撃は収まった。見通しのよい平原を進軍していれば奇襲を受けることもなく、容易にTannetumにたどり着くことが出来た。
 この町はポー川の近くに位置している。川を使った輸送も可能であり、多少は要塞化されていた。ガリア人のうちのブリクシア人からの援助を受けることも可能だったので、マンリウス軍はここで守備を固めた。防壁の外の敵は、日増しにその数を増やしていった。
| livy | 21巻 | 19:38 | comments(1) | - | - | -
(*1)221年の執政官を務めた人のようですが……スキピオ・アフリカヌスとは血縁関係にある人なのでしょうか。似たような名前でグナエウス・コルネリウス・スキピオ・アシナという人がいますが…その血縁者でしょうか。ちなみにグナエウスは第一次ポエニ戦争のときに海戦で敗北したため、「アシナ(ロバ野郎)」という、あまりありがたくない添え名をいただいております。
| ニワセ | 2006/02/01 7:44 PM |










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